三線 盛嶋開鐘(ムリシマケージョー)のお話



琉球王国時代、首里王府の別邸だった御茶屋御殿(うちゃやうどぅん)で
名工・真壁里之子(マカビサトゥヌシ)の作った三線を集めて弾き比べをした。

大抵の物は夜が更けるにつれ音色が悪くなっていったが、その一方で
暁を告げる開静鐘(ケージョーガニ)の音が響きわたる時間になっても、ますます美しい音を奏でた三線が五挺残った。

この五挺は真壁作の優秀なものとし、『五開鐘』と呼ばれるようになった。

特に盛嶋開鐘は城(グスク)開鐘ともに五開鐘の筆頭として戦前まで(※)中城御殿が所有していて門外不出であった。
※中城御殿(なかぐすくうどぅん)は、琉球王国の王世子(中城王子)の邸宅のこと。






時は流れ・・・

昭和20年(1945年)4月の米軍の沖縄上陸の際に中城御殿は屋敷の西隅に頑強な壕を掘って、
王冠、おもろさうしなどの宝物とともに格護して首里を離れた。

戦が終わり、帰ってみると壕は焼けてはいなかったが、中の物はすべて持ち去られた状態で何ひとつ残っていなかった。

戦後ほどなくして米国から「おもろさうし」が返還されたので、
この名器二挺も必ず米国に渡ったものと確信していると尚家に詳しい真栄平房敬さんは語っていた。

ところが・・・・、

昭和57年(1982年)宮里春行さんに北谷(ちゃたん)の住人から
『私の持っている三線は盛嶋開鐘だが金に困っているので買い手を紹介してくれないか』と連絡があった。

夢にまで見た行方不明の開鐘ではと半信半疑で手にしてみると心が震えるほどの作りと品位であり
「盛嶋開鐘」と芯に書かれた朱書きの書体の格調高さといい紛れもなく本物と確信した。

本物であるとの確信のため所有者はウン千万円は欲しいという。
それでも宮里さんは買い手がいると思ったが持ち前の義侠心が顔を出した。

『この三線は本来は中城御殿のものであり、あなたはこれまで単に預っているだけのことで
本来なら中城御 殿に返されるべきものである。』

『この三線がウン千万円の値段がする場合は、公然と白日の下で売買される時であり、
この三線は今のところ潜っている状態で公然と売買される状態にはない。』

『そこでどうだろう、あなたが戦後30年間預っていたことにして
年10万円をその管理料として、300万円を受け取ることにしたらどうか。
その費用は本来の所有者である尚裕さんにお願いし、
尚さんから沖縄県の財産として県立博物館に寄贈させたほうがいいのではないか。』

『もし、貴方が駄目だと言っても私がこのことを知ったからには、あくまでも公表する』
と大岡裁判よろしく説得した。

その理非を弁えた情熱にほだされ相手もしぶしぶ折れてそのような運びとなった。


何よりも狂喜したのは三線愛好家である。
これまで目にしていた開鐘は最高のものではなく、二番手、三番手の三線であり
最高の盛嶋開鐘は戦災にあったとして諦めていたのが忽然と出現したのである。

彼らはまるで戦場から生き返って来た息子に会ったようにためつすがめつ展示された盛嶋に見入った。
憂いは完全に去った。

なお、盛嶋開鐘は昭和57年(1982年)11月10日尚裕氏から県立博物館に寄贈されている。




盛嶋開鐘三線 鑑賞会記録

1.芯に達筆の朱書で盛嶋開鐘の銘がある。
2.ウティグァ(芯の尾のところ)を黒木の粉を漆でこねて埋められている。
3.材料は黒木の上質。
4.鳩胸に横線の傷がありそこを補修してある。
5.シンシダシ(芯を磨く)として黒木の粉を漆でこねて仕上げてある。


盛嶋開鐘 附胴(つけたりどう)

この三線に使用されているチーガ(胴体木枠)は画像のように特殊な細工がされており、
音が共鳴するように工夫されている。
現在ではこのような木枠のことを開鐘チーガ(けーじょーちーが)と呼んでいる。


図1.盛嶋開鐘銅内の墨書の銘。右側に製作年、左側に製作者銘が確認できる。

図2.盛嶋開鐘の胴内部の「く」の字の綾杉状の襞(ひだ)部分(凸部)と凹部分

図3.盛嶋開鐘の胴部のX線投影

図4.比較資料の胴部のX線投影 
※一般的な三線の胴

備考

五開鐘は真壁型に限られている

・盛島開鐘

・城開鐘

・湧川開鐘

・西平開鐘

・アマダンジャ開鐘


県指定有形文化財の開鐘は以下の5つ。

・盛嶋開鐘 附胴(ムリシマケージョー つけたりどう)

・翁長開鐘(ヲゥナガケージョー)

・志多伯開鐘(シタファクケージョー)

・湧川開鐘(ワクガーケージョー)

・富盛開鐘 附胴(トゥムイケージョー つけたりどう)

※(  )内のカタカナは首里言葉。


以上で、盛嶋開鐘三線のはなしは終わりますが、
こちらも負けじと平成の五開鐘(?)「銘苅三線 附銅」でも完成させようかと思っている。










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